記事一覧

皇子が丘公園の桜2008

 昨日の大津は,うららかな陽気で,絶好の花見日和でしたね。という訳で,昨年も訪れた皇子が丘公園へ桜を見に行ってきました。
 まずは,JR湖西線の大津京駅で下車。3月15日に駅名が「西大津」から「大津京」に変わってから初めてこの駅を利用しましたが,うん,確かに表示が変わっていましたね。まぁ当たり前ですが…。その大津京駅からてくてくと徒歩5分足らずで皇子が丘公園の入り口付近に到着。正午ごろにそのあたりのコンビニで飲食物を調達しましたが,結構売り切れが多いですね。さすが絶好の花見日和に,客が殺到したようです。

 さて,山の斜面に広がる公園に入ってみると,五分咲き程度の桜もあったり満開に見える桜もあったり,色合いも実にさまざまです。この公園は桜の種類が多いんでしょうかね。桜の種類には詳しくないので,よく分かりませんが…。昨年来たときは,雨模様で花見客が少なかったんですが,この日はさすがに多い…。しかし,去年とは違って好天で地面も乾いているので,桜と琵琶湖が見える適当なところで座って早速ビールを…。う~ん,とりあえず気持ちのいい天気でビールがうまいですねぇ。笑顔

 しかしまぁ,車で来てバーベキューをしている人も多いので,公園内の道路は車で溢れ返っています。スペースを探してあちこちで車がうろうろ。う~ん,大変ですねー。少し離れた大きめの遊戯施設では,子どもたちが鈴なりになって遊んでいます。いつも思いますが,こういう花見会場近くで警察の検問があったら大量検挙なんでしょうけど,そういう光景は見たことがありませんね。そんな検問は野暮ということでしょうか。にやり

 また,ふと山の方向を見上げると,すぐ近くで何やら大きなマンションが建築中です。あぁ…また琵琶湖岸の景観がつぶされていくのかぁ…。このマンションの売りは,琵琶湖の景色がいいことと,いつでも公園でバーベキューができることなんでしょうか。ただ,車がないと結構生活がつらいよなぁ…。あの方向なら,去年行った「フェノロサの墓」がある法明院のすぐ脇に建つことになるような。う~ん…。滝汗

 で,昨日の雲ひとつない好天とは打って変わって,今日は雨が降り続きました。満開近くまで咲いた桜にとっては,花散らしの雨になりますかね…。自宅周辺にも桜は多いので,しばらくは桜を楽しみたいんですけど,どうでしょうか。

沖縄尚学2度目の優勝

 沖縄尚学高校が,選抜高校野球大会で優勝しました…。笑顔

朝日新聞(2008年04月04日14時55分)
沖縄尚学、9年ぶり2度目の優勝 選抜高校野球

 第80回記念選抜高校野球大会第14日の4日、決勝は聖望学園(埼玉)と沖縄尚学の顔合わせ。3年ぶり4回目出場の沖縄尚学が、初出場で決勝へ進んだ聖望学園を9―0で破り、9年ぶり2度目の優勝を決めた。沖縄尚学の比嘉公也監督は第71回大会で同校が優勝したときのエースで、選手と監督の両方の立場で栄冠をつかんだ。

 聖望学園は2回戦で小松島(徳島)、3回戦で履正社(大阪)、準々決勝で平安(京都)、準決勝で千葉経大付を、一方の沖縄尚学は2回戦で聖光学院(福島)、3回戦で明徳義塾(高知)、準々決勝で天理(奈良)、準決勝で東洋大姫路(兵庫)を破り勝ち上がってきた。

 聖望学園は大塚、沖縄尚学は東浜の両右腕エースが先発。

 1回裏、沖縄尚学は聖望学園先発大塚の立ち上がりを攻め、先頭の伊古が右中間を破る三塁打、2番伊志嶺の打席で大塚が暴投、伊古が生還し、先取点を挙げた。
 続く2回裏、先頭の5番波照間が四球、盗塁と6番嶺井の犠打で1死三塁とし、7番新垣のスクイズで追加点を挙げた。
 さらに3回裏には、聖望学園の先発大塚から代わった石田から、3番西銘が左越え三塁打、続く4番仲宗根が右前適時打、さらに5番波照間は左越え適時二塁打、2死から7番新垣が右中間を破る適時三塁打、8番東浜の適時内野安打でこの回一挙4点を挙げた。
 4回表、聖望学園はそれまで無安打に抑えられていた沖縄尚学先発の東浜から、先頭の2番小名木が右前安打、3番城戸の二ゴロで1死二塁と走者を得点圏に進めたが、後続が倒れ、得点できなかった。
 5回裏、沖縄尚学は攻撃の手を緩めず、聖望学園3番手の佐藤から7番新垣の内野安打と犠打、相手失策などで1死一、二塁、1番伊古の打球は右中間を深々と破り、これがランニングホームラン。この回3点を追加し、リードを9点に広げた。
 7回表、聖望学園は5番大塚の中前安打と死球で無死一、二塁の好機をつくった。2死後、9番高山が粘り四球、2死満塁としたが、後続が倒れ、得点できなかった。

 聖望学園は3回以降、毎回走者を出したが、沖縄尚学先発の東浜に要所を抑えられ、好機を生かすことができなかった。

 う~ん,完勝ですねぇ。こんなに点差がつくとは思いませんでした…。さすがに9年前ほどの感動はないですけど,沖縄尚学がこんなに強さを見せつける勝ち方ができるのには驚きましたね。

 これだけ点を取れば,バッティングが目立ちますけど,沖縄尚学はディフェンスの強さが素晴らしかったですね。うん,やっぱり野球は守りから。この安定感が力強い攻撃のリズムを生んでいるんでしょうね。

 一応,滋賀県に住んでいる者としては,北大津高校がもう少し勝ちあがって,決勝で沖縄尚学と対戦すればよかったなぁと思ったりします。きっといい試合になっていたでしょうね。まぁ,また夏の大会に期待しましょう。

 今回は,本当に久しぶりに高校野球に注目しました。とりあえず,今日はプロ野球の結果は気にしないでおきましょう。気分よく眠らせていただくことにします…。♪

小麦粉から米粉へ

 このところ,米が見直されているようですね。微笑

農業協同組合新聞(2008.3.13)
新潟県が「R10プロジェクト」を提唱 -米粉食品の需要拡大めざす

 あられ、せんべいなど米菓の製造が日本一の米どころ新潟県は、県が主導して「にいがた発・R10プロジェクト」運動を提唱している。
 R10プロジェクトは「Rice Flour 10% Project」の略で、食料自給率を向上させるため、小麦粉消費量の10%以上を米粉に置きかえる国民的なプロジェクト運動を新潟から全国に呼びかけるもの。
 米を中心とした「日本型食生活」の実践が叫ばれてきたものの、米の消費減に歯止めがかからず、食料自給率はむしろ低下した。米加工事業が盛んな新潟県では、県農業総合研究所食品研究センターが開発した微細製粉技術により、小麦粉とより相性のよい米粉の製粉が可能になり、いろいろな米粉食品ができるようになった。
 県は小麦粉の消費量10%以上を米粉に置き換えれば、現在の食生活を大きく変えずに食料自給率の向上に貢献できるとしている。県の試算では、10%を米に置き換えた場合、食料自給率は2%上がる。輸入小麦の輸送時にかかるCO2排出量の10%の17万4000tの削減にもつながる。これは、富士箱根伊豆国立公園が1年間に吸収するCO2に当たるという。
 米粉用米の数量は55万tと見込まれ、作付け面積は10万haに当たる。米を作付けすれば、耕作放棄地の縮小にもつながる。
 穀物価格が上昇し、小麦製品価格が上昇を続けている今こそ、米粉食品拡大の絶好の時と、新潟県は強調している。

 今朝,テレビでニュースを見ていたら,昨今の小麦粉の値上げを受けて,米の特集を放送していました。小麦製品が割高になったことで,米へ回帰する動きが見られるようになったとのことです。それだけではなく,小麦粉の代わりに米粉を使ってパンを作ろうとする動きにも注目が集まっているそうで…。

 今までの米粉は小麦粉に比べて粒子がかなり粗くて,ふっくら焼き上げるパンには向かないと言われていたのですが,米どころ・新潟県の研究により,小麦粉と同様の細かい粒子の米粉を作る技術が確立したそうです。これにより,小麦粉よりさらにもちっとした食感のパンづくりが可能となったとのこと。そう言えば,ちょっと前に米粉専門の神戸のパン屋がテレビで紹介されているのを見ました。

 米粉のパンって,おいしいんでしょうかね。私自身はもともとパンは好みではなくて,あまり口にしないのですが,今まで小麦のパンを食べていた人が米粉のパンを食べるようになると,食料自給率は飛躍的に上昇しますねぇ。最近の輸入食品から国産品へシフトする動きにも合致して,これからの展開が注目されます。
 報道によると,大手コンビニチェーンのローソンが,米粉のパンを本格的に売り出すために,取引先のメーカーと共同で開発中とのことですので,これから劇的な変化があるのかもしれません。

 パンだけでなくて,うどんにも米粉を使う動きがあるようですね。どこかのメーカーが米粉を配合したうどんを作ったという話を聞いたんですが,どこでしたっけね…。とりあえず,歯ごたえはよさそうですが,もうひとつ想像できません…。これも一般化するでしょうか。笑顔

日本で事前合宿

 北京五輪の直前に日本で合宿するケースが相次いでいるようで…。

産経新聞(2008.4.2 22:58)
「日本で事前合宿」水泳だけで約10カ国 北京五輪

 日本水連の佐野和夫専務理事は2日、北京五輪の事前合宿を日本で実施する海外の水泳勢は英国など約10カ国になるとの見通しを明らかにした。

 競泳では英国とニュージーランドが大阪府、イタリアが千葉県、オランダが長崎県、ポーランドが富山県、チュニジアが兵庫県尼崎市のプールを使う。水球のスペイン、モンテネグロ、ドイツも国立スポーツ科学センター(JISS)などで合宿する方向で調整している。日本オリンピック委員会(JOC)を通してスウェーデンなども日本で合宿を張る。

 う~ん,このまま日本でオリンピックをやりますか,という勢いで…。まぁ,設備の問題もあるでしょうけど,食事や環境の問題が大きな影響を与えているということなんでしょうね。陸上競技では,環境についての影響がさらに大きいはずです。

 これとは別に,環境と共に政情が不安な中国という理由で,天皇・皇后など皇族方の北京五輪の開会式への出席が見送られるとのことです。とりあえず,この点でまともな判断がなされたことには安堵しています。

 でも,それだけではありません。

 先ほど,アムネスティ・インターナショナルが中国の人権問題に関する報告書を発表したという報道がありました。中国への非難はもちろんですが,「中国国内で人権活動家らが沈黙させられている状況で,IOCや国際社会,中国と取引のある海外企業が非難の声を上げないのは,人権弾圧の共犯者と変わらない」という内容が含まれています。

 中国に対しては,日本政府には,少なくとも対話による解決への努力をさせる圧力をかけてもらいたいですし,その意思を公式に明らかにしていただきたいですね。今のところ,中国の国家主席が来日する予定でいるようですが,来日したとして,果たしてどんな話をするんでしょうか。何もしないなら,招くべきではないでしょうね。

【京都の寺社】宝筐院

 今回は,前回の落柿舎から北東に少し歩いたところにある宝筐院(ほうきょういん)。見た目はひっそりとした雰囲気の寺院ですが,紅葉の名所として有名ということで,秋ともなると,多くの人が訪れるようです。微笑
 宝筐院は臨済宗の単立寺院で,本尊は木造十一面千手観世音菩薩立像。室町幕府の二代将軍・足利義詮(あしかが・よしあきら)と南朝の忠臣・楠木正行(くすのき・まさつら)の菩提寺として知られています。

 この楠木正行というのは,河内国の豪族として有名な楠木正成(まさしげ)の嫡男です。足利尊氏が室町幕府を開いて南北朝が対立した時代,南朝方の武将として幕府と戦って討ち死にした人物です。父親の正成が大楠公と尊称されたことに対して小楠公(しょうなんこう)とよばれました。宝筐院には,対立したはずの幕府方の足利義詮と南朝方の楠木正行が,なぜか一緒に葬られているということになります。

 そんな疑問も持ちながら,以下,パンフレットの記述です。とてもよくまとまっているので,そのまま引用したりします…。滝汗

==パンフ始まり==

宝筐院略史
 平安時代に白河天皇(1053~1129)の勅願寺(天皇の発願によって建てられた寺)として建てられ,善入寺と名づけられた。平安の末から,鎌倉時代にかけては,数代にわたり皇族が入寺して住持(寺院の住職)となった。
 南北朝時代になり貞和年間(1345~50)より夢窓国師の高弟の黙庵周禅師が入寺し,衰退していた寺を復興して中興開山となり,この善入寺にあって門弟の教化を盛んにし,これ以後は臨済宗の寺となった。

 室町幕府の二代将軍・足利義詮は,貞治四年(1365)に母の死去にあい,その法要の席において黙庵から経典の講義を聞き,更に参禅問答したことを契機に黙庵に帰依し,師のために善入寺の伽藍整備に力をいれた。
 東から西へ総門・山門・仏殿が一直線に建ち,山門・仏殿間の通路を挟んで北に庫裏,南に禅堂が建ち,仏殿の北に方丈,南に寮舎が建っていた。寺の位置は「応永均命図」(室町時代前期の嵯峨地域寺院配置図)によると現在地と変わらない。

 貞治五年に観林寺と改称されたが,まもなくもとの名にもどされ,貞治六年(1367),義詮が没する(38歳)と,善入寺はその菩提寺となり,八代将軍・義政の代になって義詮の院号の宝筐院に因み寺名は宝筐院と改められた。備中・周防などに寺領があり,足利幕府歴代の保護もあって寺も隆盛であったが,応仁の乱以後は幕府の衰えと共に寺領も横領されるなど経済的に困窮した寺は次第に衰微した。
 その後,江戸時代には天龍寺末寺の小院で,伽藍も客殿と庫裏の二棟のみとなり,幕末には廃寺となったが,五十数年をへて復興された。

小楠公首塚由来
 黙庵は河内の国の南朝の武将・楠木正行と相識り,彼に後事を託されていた。正平三年・貞和四年(1348)正月,正行は四条畷の合戦で高師直の率いる北朝の大軍と戦い討ち死し(23歳),黙庵はその首級を生前の交誼により善入寺に葬った。後にこの話を黙庵から聞いた義詮は,正行の人柄を褒めたたえ,自分もその傍らに葬るように頼んだという。
 明治二十四年(1891),京都府知事・北垣国道は小楠公(楠木正行)遺跡が人知れず埋もれているのを惜しみ,これを世に知らせるため,首塚の由来を記した石碑「欽忠碑」を建てた。

伽藍再興
 楠木正行ゆかりの遺跡を護るため,高木龍淵天龍寺管長や神戸の実業家の川崎芳太郎によって,楠木正行の菩提を弔う寺として宝筐院の再興が行われた。
 旧境内地を買い戻し新築や古建築の移築によって伽藍を整え,屋根に楠木の家紋・菊水を彫った軒瓦を用い小楠公ゆかりの寺であることを示した。
 大正六年に完工し,古仏の木造十一面千手観世音菩薩立像を本尊に迎え,主な什物類も回収され,宝筐院の復興がなった。その後更に茶室が移築され,現本堂が新築された。
 現在は臨済宗の単立寺院。

楠木正行・足利義詮墓所
 石の柵に囲まれて,二基の石塔が立つ。五輪塔(※写真右側)は楠木正行の首塚(首だけを葬ったから),三層石塔(※写真左側)は足利義詮の墓と伝える。当院再興の時に残されていた石塔はこの二基のみであり,その他の墓は不明だが時折石塔の小部分が出土することがあり,多くの石塔が立っていたことがわかる。荒廃し廃寺となっている間に,殆どのものが石材として持ち去られたのであろう。墓前の石灯籠の書は富岡鉄斎の揮毫。「精忠」は最も優れた忠。「碎徳」は一片の徳,即ち敵将を褒めたたえその傍らに自分の骨を埋めさせたのは徳のある行いだが,徳全体からみれば小片にすぎない,という意味で義詮の徳の大きさを褒めた言葉。

==パンフ終わり==

 対立したはずの幕府方の足利義詮と南朝方の楠木正行が,一緒に葬られているという疑問に答えるパンフレットでした。
 それにしても,宝筐院の紅葉はきれいですね。この庭園は回遊式の枯山水庭園ということです。普段は静かな庭園に大勢の人が訪れる理由がよく分かります。紅葉の色もさまざまで,そのコントラストが微妙な風合い醸し出していますね。笑顔

沖縄尚学ベスト8

 沖縄県勢が快進撃しているようですね。

デイリースポーツ(2008年3月31日)
沖縄尚学勝ち、8強そろう

 沖縄尚学3-1明徳義塾

 第80回選抜高校野球大会第10日は31日、甲子園球場で3回戦の残り1試合を行い、沖縄尚学(沖縄)が昨秋の四国大会を制した明徳義塾(高知)を3-1で下し、ベスト8が出そろった。

 OBで第71回大会優勝時のエースだった比嘉監督が率いる沖縄尚学は一回に西銘が先制の2点本塁打を放ち、四回にも東浜の適時打で1点を追加。東浜が明徳義塾の反撃を八回の1点に抑え7安打完投し、3年ぶりの準々決勝進出を果たした。

 沖縄尚学の東浜は低めへの制球が抜群だった。140キロ台の直球と変化球の緩急も使い、1失点完投。打線は一回に西銘の左越え2ランで先制し、四回に東浜の適時打で加点した。
 明徳義塾は南野が粘り強く投げていたが、打線が東浜にうまく打たされて、好機でも凡退を繰り返した。八回に1点を返したが、反撃が遅すぎた。

 今回の選抜高校野球で,沖縄尚学が出場していたことは何となく認識していましたが,ほとんど注目して見ていませんでした。いつの間にかベスト8になっていましたか~。
 それにしても,沖縄尚学のピッチャーはとてもきれいな投球フォームで,球筋が安定していますね。今回,初めて沖縄尚学の映像を見て,守備力と打撃力が整ったバランスのいいチームという印象を持ちました。

 そう言えば,今回のチームの監督は,1999年の選抜大会で初優勝したときのエースピッチャーだったんですね。監督になって母校に戻ってきましたか…。そうそう,当時の優勝はテレビで見届けましたね。翌月曜日にスポーツ新聞をたくさん購入しようと思っていたんですが,その日から東京出張だったこともあって,そのまま買えずに取引先へ…。で,その取引先のテーブルの上にスポーツ新聞があるのを見つけて,お願いして持って帰りました。

 そのスポーツ新聞をどこかにしまってあったよなぁと思って,先ほど部屋をがさごそ探したら…。ありましたよ。茶色に変色していましたけど,紙面にはバーンと優勝の瞬間の写真が載っています。という訳で,当時のその新聞記事を取り上げてみましょう。

スポーツニッポン(1999年4月5日)

沖縄に初大旗!
 悲願の大旗がついに海を越えた。ともに初優勝を懸けて挑んだ翌日から沖縄尚学と水戸商(茨城)の決勝戦は4日、甲子園球場で行われ、沖縄尚学はエース比嘉公也(3年)を左ひじ痛で欠きながら右腕・照屋正悟(3年)が好投。打線も10安打と援護して7-2で水戸商を逆転で破り、初優勝を飾った。沖縄県勢は春夏通じて3度目の決勝進出で初の全国制覇を達成。紫紺の大旗は初めて海を渡り、きょう5日、最南の地に届く。

第71回選抜高校野球大会 決勝戦
水戸商業 020 000 000 2
沖縄尚学 020 021 20× 7

浜田22年ぶり本塁打
 長い時を埋めるサイレンが甲子園に響きわたる。鳴りやまない指笛、銀傘にこだまする大歓声…。総立ちで万歳三唱する一塁側アルプス席に沖縄尚学ナインは全速力で駆け寄った。
 沖縄県代表として首里高が初めて甲子園の土を踏んだのが1958年夏。1万4848日の時を経て、初めて大旗が東シナ海を渡るときがやってきた。「沖縄で初めて勝てたことに意味がある」金城監督の言葉は沸き起こる大きな拍手にかき消されていく。

 エース不在で臨んだ大一番だった。今大会4試合で504球を投げた比嘉公の左ひじ痛は限界。前夜のことだ。金城監督から「大学でも野球を続けたいか」と聞かれた比嘉公が「はい」と答え、決勝戦の先発は控えの照屋に決まった。それでも夢へ向かうナインは逆に燃え上がる。「ここまでこられたのはお前のおかげ。ゆっくり見ていてくれ」と比嘉寿主将。そして昨年秋の県大会まで背番号1をつけていた照屋はひたむきに魂の投球を続けた。

〝代役〟照屋好投
 「比嘉のためにも思い切り投げた」と水戸商を7安打2失点に抑えれば、打線も執念を見せる。二回に2点差を追いつき、五回無死一塁から途中出場の新垣雄が右中間へ会心の逆転三塁打。七回には浜田が県勢22年ぶりになるセンバツ本塁打を左翼席へ打ち込んだ。
 思えば沖縄県勢が初めて甲子園にやってきた58年はまだ米国統治下だった。用具は不足し、ホームベースは米袋に土を詰めたものを代用、ユニホームは米兵の迷彩服の布を再利用したものだった。パスポートを持って船と汽車で48時間かけて甲子園入りした本土復帰は72年のこと。かつて「野球で甲子園に行くのが早いか、沖縄から大臣が出るのが早いか」と本土勢からやゆされたが、沖縄の野球は力を着実に伸ばしてきた。

 「大旗が海を渡った時に沖縄の戦後が終わる」と語ったのは沖縄の名将、沖縄水産・栽監督。その師の豊見城時代の教え子、金城監督によって今、長い歴史にピリオドが打たれた。沖縄出身のKiroroが歌う「長い間」の行進曲で始まった今大会。最後は4万8000人の大観衆が見せたウエーブで幕を閉じた。何度も何度も繰り返す人の波。1999年4月4日。空白を埋めた沖縄に新しい波が訪れた。

 1999年優勝当時の沖縄尚学の現監督は,切れのいい球を投げる左腕の投手だったなぁという記憶ぐらいしかありませんけど,決勝戦では投げていなかったんですね。何となく思い出してきました。それまでの沖縄県勢は,選抜大会にはほとんんど出場できなかったですね。それでも夏の大会は度々強さを発揮して,沖縄水産は1990年と1991年の2年連続で,夏の甲子園準優勝でした…。そして1999年になって,ついに沖縄尚学が選抜大会で優勝。

 もう今は「優勝旗が○○を越える」という表現は古くなりましたね。かつて東北勢が優勝して「優勝旗が白河の関を越えるのはいつか…」なんて言っていましたが,いきなり津軽海峡を越えて駒大苫小牧が優勝してしまったので,全く使えないフレーズとなりました。選手の移動が盛んなことも原因なんですけど,今は日本全国どこのチームが優勝してもおかしくない状況にあります。

 私としては,スポーツニッポンの記事の中で,昨年亡くなった沖縄水産の元監督・栽さんがおっしゃった「大旗が海を渡った時に沖縄の戦後が終わる」。このことが,野球だけではなく名実ともに沖縄全体に浸透することを願っています。

【京都の寺社】落柿舎

 さて,京都の嵯峨野と言えば,のどかな田園風景を思い浮かべる人も多いと思いますが,今回の落柿舎(らくししゃ)はその田園風景に溶け込みながら佇んでいます。う~ん,これぞ典型的な日本の原風景という感じですねぇ。しばらくボーっとひなたぼっこでもしていたいような風景です。微笑落柿舎は江戸時代の俳人・松尾芭蕉の弟子で,蕉門(しょうもん)十哲の一人とされる向井去来の草庵です。松尾芭蕉も何度か滞在し,元禄四年(1691)の滞在時には「嵯峨日記」を執筆したと言われています。

 向井去来が記した「落柿舎記」には,名前の由来についての記述があります…。落柿舎の庭に柿の木が40本あって,その柿の実を購入する約束をした商人が,代金を置いて帰ったそうです。ところが,その夜の嵐によって柿の実がほとんど落ちてしまいました。驚いて駆けつけた商人に去来が代金を返したということで,それが落柿舎の名前の由来となっているとのことです。庭には,「柿主や木ずゑは近きあらしやま」と記された去来の句碑もあります。

 しかし,現在の落柿舎には,柿の木が40本も生えるほど広い庭はありません。実は,もともと落柿舎があったのは少し違う場所で,俳人の井上重厚が明和七年(1770)に再建したときに現在の場所になったそうです。その後,明治28年(1895)にも再建されているようですね。落柿舎の北側は弘源寺の墓苑になっていて,そこに向井去来の遺髪を納めたという墓があります。しかし,去来の葬儀は哲学の道近くの真如堂で行われ,そこに墓もあるとのことですので,こちらが本来の墓でしょうか。

 落柿舎の門を入ったところには蓑と笠がかけてあります。もともと,去来が在宅ならかけておき,かかっていなければ外出中というしるしでしたが,現在は落柿舎の象徴として常にかかっています。当時の俳人たちの生活の風景が表れているような感じがしますね。
 落柿舎の庭には,この庵に関わってきた人々や功労のあった人々の句碑があちこちに建てられています。その句碑を見ながら,のどかな佇まいの中でのんびりとするのも一興でしょう。また,落柿舎にある投句箱に投句された句のうち,入選句は季刊誌「落柿舎」に掲載される上に自宅にも郵送してもらえるそうです。落柿舎を訪れた際には,旅の記念に一句ひねってみてはいかがでしょうか。笑顔

セ・リーグ開幕

 今日はプロ野球セ・リーグの開幕日なので,とりあえずこれですね。

中日新聞(2008年3月28日 22時22分)
中2-2広(28日) ともに決め手欠き引き分け

 両チーム決め手を欠き、引き分けた。中日は1-2の9回に中村紀の適時二塁打で追いついたが、延長10回は無死満塁を生かせず。広島は初の開幕投手の大竹が8回1失点と力投したが、9回登板のコズロースキーがリードを失った。
中日-広島1回戦(18時2分、ナゴヤドーム、38255人)
広 島 001 000 001 000-2
中 日 001 000 001 000-2
(延長十二回規定により引き分け)
▽本塁打 川上1号(1)(大竹)

 ドラゴンズは,福留がいなくても別に違和感はありませんね。去年の後半からいませんし…。それでも,9回に大竹が降板してくれたおかげで負けなくて済んだわけですが…。とにかく,今日の試合は長すぎて,とても疲れましたね…。10回裏のノーアウト満塁で無得点はさすがにきついな…。蒼ざめ
 という訳で,ついに2008年のプロ野球シーズンが始まりました。試合結果に一喜一憂する毎日が来たかと思うと,嬉しいような悲しいような。滝汗とりあえず,感動できるような試合を期待したいと思います。

「すべてやらせだ」

 チベット情勢は,だんだん深刻化しているように見えます。

読売新聞(2008年3月27日21時58分)
「すべてやらせだ」直訴のチベット僧らTV映像に

 【香港=吉田健一】チベット族による大規模暴動が起きた中国チベット自治区の区都ラサを26日、中国政府が組織した外国メディア取材団が初めて訪れ、香港無線テレビ(TVB)は27日、「取材先の寺院の参拝客らはすべて当局が動員した関係者だ」などと訴えるチベット僧侶の姿を放映した。

 チベット仏教寺院ジョカン寺(大昭寺)を訪れた取材陣の前に約30人の僧侶が突然現れて語ったもので、「当局者を信じるな。すべてやらせだ」などと泣きながら訴えたという。AP通信はまたラサ発で、事前に当局が設定した取材を遮って僧侶らが「チベットに自由はない」などと語ったと伝えた。

 中国外務省の秦剛・副報道局長は27日、「僧侶が何を言ったか承知していないが、(やらせとの指摘は)根拠がなく、無責任で事実に合わない」と反論した。

 今回の話がやらせかどうかは分かりませんが,中国共産党ならやりかねないと思ってしまうところが,この国の本質を表していると感じられます。昨年発生した,例のダンボール肉まんの事件の報道をやらせだとして摘発した中国捜査当局の発表そのものも,やらせだと思った人も多いでしょう。そもそも,中国人は中国共産党を全く信用していないように思われます。中国の人民は,中国共産党の国ぐるみのやらせに付き合いながらも,したたかに生きるしかないと言う状態にあるのかもしれません。

 先ごろは,中国の全国人民代表大会(全人代)のニュースが流れていましたね。その代表は日本で言えば国会議員に当たるわけですけど,その全人代の代表が記者会見に登場するという画期的なことが報道されていました。それでも,党中央の意向に反することは発言できません。記者の微妙な質問には当たり障りのない言葉で返すしかなく…。
 こうして,いつまでも壮大なやらせが続くのでしょうか。

ドアラのひみつ

このところ,何だかマスコットばかり扱っているような…。

スポーツニッポン(2008年03月26日 08:27)
中日のマスコット人気「キモかわいい」

 中日のマスコット「ドアラ」が、選手を上回るほどの人気を集めて注目されている。
 ドアラが誕生したのは1994年。84年に名古屋市内の東山動物園にコアラが日本に初めてやってきたことにちなんで、なじみの深い動物をモチーフに名付けられた。
 中日の公式ブログをきっかけに人気が出始め、昨年インターネットの動画サイトで紹介されて火が付いた。コミカルでマスコットらしからぬちょっと傍若無人な行動が「キモかわいい」と評判になり大ブレーク。女性雑誌やテレビのワイドショーに次々に取り上げられるまでになり、取材の申し込みも後を絶たない。
 過熱するドアラ人気に今年2月、異例のマスコット本「ドアラのひみつ かくさしゃかいにまけないよ」(PHP研究所)が出版された。
 ドアラの一問一答や、仲良しで顔が似ていると言われる森野将彦選手のインタビューなどを掲載。初版は7000部の予定だったが、予約が殺到して7万部に。それも1週間で売り切れ、さらに5万部増刷する大ヒット。会社を説得して出版にこぎつけた担当の太田智一氏は「売れるとは思っていたが、ここまでとは…」と驚く。東京で行われた出版記念サイン会では、整理券を手に入れるために徹夜するファンまで現れた。
 グッズの売り上げでも球団でトップクラス。DVDやCD、ゲームソフトなどの発売も検討されている。
 中日の加茂浩将広報部長は「野球に最初は興味がなくても、ドアラが見たいから球場に来たいと言ってくれる人も多い」と喜ぶ。奮闘するマスコットたちが、プロ野球ファンの拡大にひと役買っている。
 最後に、球団を通じてドアラに今の人気についての感想をコメントしてもらった。「別に気にしてませんけど…」

 なるほど…振り返ってみると,ドアラって結構長いことやっていたんですね。東山動物園のコアラは,80年代の名古屋の象徴とも言うべき存在でしたが,90年代になって登場したドアラについての人々の反応は「えっ……」といった感じのものでした。
 しかし,いつの間にかこんなに人気が出ていたとは「人間万事塞翁が馬」ってところでしょう。…あ,人間じゃないのね…。「キモかわいい」といわれるのは,やはり,あの眉毛がポイントなんでしょうか。微笑

 近年は,異なる球団のマスコット同士が盛んに交流する場面が見られますが,ドアラは他球団のマスコットにもいじめられていたような気がします。試合中の応援では,かっこよくバク転を決めるところで失敗すると,チアドラゴンズのお姉さんたちに寄ってたかってボコボコにされるし…。後輩のマスコットのシャオロン・パオロンに比べて全然かわいくないと馬鹿にされるし…。滝汗
 こういった姿が,いつしか哀愁を帯び,あの微妙な顔つきと相まって,密かな人気を呼んできたのでしょうか。「ドアラのひみつ」という本はまだ読んでいませんが,こういったドアラの経緯が,副題の「かくさしゃかいにまけないよ」に表れているんでしょうかね…。

 このドアラのように,マスコットの人気というのはどうなるか分からないものです。今は不評という例の「平城遷都1300年祭のマスコット」もいずれ,人気爆発大フィーバーという状況になったりするかもしれません。…ちょっとしつこいですか…?笑顔