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【京都の寺社】祗王寺

 祗王寺は,前回の滝口寺のすぐ近くにあります。滝口寺とともに,もとは往生院であったところですが,ここも平家物語ゆかりの地ということで,平清盛と祗王の物語が伝えられています。秋には,苔で覆われた庭園と紅葉のコントラストが美しいですね。
 祗王寺の由来と平清盛・祇王の物語は,祗王寺のパンフレットから…。

==以下引用==
 祗王寺(尼寺) 現在の祗王寺は,昔の往生院の境内である。往生院は法然上人の門弟良鎮に依って創められたと伝えられ,山上山下に亘って広い地域を占めていたが,いつの間にか荒廃して,ささやかな尼寺として残り,後に祗王寺と呼ばれる様になった。

 祇王寺墓地入口にある碑には「妓王妓女仏刀自の旧跡明和八年辛卯正六百年忌、往生院現住、法専建之」とあって,此の碑の右側に「性如禅尼承安二年(1172)壬辰八月十五日寂」と刻んであるのは,祗王の事らしい。

 安永の祗王寺は明治初年になって廃寺となり,残った墓と木像は,旧地頭大覚寺によって保管された。大覚寺門跡楠玉諦師は,これを惜しみ,再建を計画していた時に,明治二十八年,元の京都府知事北垣国道氏が,祗王の話を聞き,嵯峨にある別荘の一棟を寄附され,此が現在の祗王寺の建物である。これ等の関係で,祗王寺は大覚寺の塔頭で真言宗である。

 平家物語の巻頭に,「祗園精舎の鐘の声,諸行無常の響あり。沙羅雙樹の花の色,盛者必衰のことわりをあらはす。おごれる人も久しからず,唯春の夜の夢の如し。……」と美しく書き出してあるが,更に読み進むと祗王祗女の事が出て来る。これは,平氏全盛の頃,平清盛と二人の女性の哀れな物語である。

 その頃,都に聞こえた白拍子(歌舞を舞う遊女)の上手に祗王,祗女と言う姉妹があった。近江の国野洲江辺庄の生れ。父九郎時定は,江辺庄の庄司であったが罪があって,北陸に流されたので,母と共に京都に出て,白拍子となり,のち姉の祗王が清盛の寵を得て,妹祗女も有名となり,毎月百石百貫の手当もあり,安穏に暮していた。

 或時清盛が祗王に,何か欲しいものがあるかと尋ねると,祗王は,自分の生国は水の便が悪く,毎年旱害を受け,一庄三村は飢餓に苦しんでいるから,願わくば,水利を得させて戴きたいと願った。清盛は早速,野洲川から三里の溝を掘らせ,水を通した。里人はこれを徳とし溝を名づけて,祗王井川と呼び,今に至っている。

 所がここに加賀の国の者で,仏御前と呼ばれる白拍子の上手が現われて清盛の西八条の館に行き,舞をお目にかけたいと申し出た。清盛は,「神とも言え,仏とも言え,祗王があらんずる所へは叶うまじきぞ,とうとうまかり出でよ」と門前払いをしたが,祗王がやさしく取りなしたので,呼び入れて,今様を歌わせることにした。仏御前は,「君を初めて見る折は 千代も歴ぬべし姫小松 御前の池なる亀岡に 鶴こそ群れいて遊ぶめれ」と繰り返し三べん歌ったが,声も節も頗る上手だったから,清盛は,たちまち心を動かして仏御前に心を移した。

 昨日までの寵愛は何処へやら,祗王は館を追い出されることになった。せめてもの忘形見にと,「萌え出づるも 枯るるも同じ 野辺の草 いずれか秋にあわではつべき」と障子に書き残して去って行く。

 あくる春になって清盛は仏(御前)が退屈しているから,舞を舞って仏をなぐさめよと使者をよこすと,祗王はもとより行く気は無かったが,清盛の権勢と母の哀願に抗しかね,館に行って,「仏もむかしは凡夫なり われらも遂には仏なり いずれも仏性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ」と歌い舞った。並居る諸臣も,涙を絞ったと言う。

 祗王は,「かくて都にあるならば,又うき目を見むづらん,今は都を外に出でん」とて,祗王二十一,祗女十九,母刀自四十五の三人,髪を剃って尼となり,嵯峨の山里,今の祗王寺の地に世を捨て,仏門に入る。母子三人念仏している所へ竹の編戸を,ほとほとたたく者がある。出て見ると,思いもかけぬ仏御前であった。

 祗王の不幸を思うにつれ,「いずれか秋にあわで果つべき」と書き残された歌を誦するにつけて,無常を感じ,今朝,館をまぎれ出でて,かくなりてこそ参りたれと被っていた衣を打ちのけるを見れば,剃髪した尼の姿であった。わずかに十七にこそなる人の,浄土を願わんと深く思い入り給うこそ,と四人一緒に籠って朝夕の仏前に香華を供えて,みな往生の本懐を遂げた。
==引用終わり==

 祗王は今の滋賀県野洲市の出身だったんですね。祗王が平清盛につくらせた祗王井川は現在でも流れを保っており,野洲市立祗王小学校の校歌にも歌われています。祗王寺には,祗王,祗女,母刀自の墓がありますが,一方野洲には,祗王,祗女,刀自,仏御前の菩提を弔うために建てられたという妓王寺があります。そんなことも知らずに,遊びに行くときに野洲周辺は結構うろうろしてましたけどね…。

【京都の寺社】滝口寺

 滝口寺は,嵯峨野の常寂光寺や二尊院から少し北へ歩いたところにある小さな寺ですが,平家物語に登場する,滝口入道と横笛の悲恋の寺として知られています。
 滝口入道は,平清盛の嫡男である平重盛に仕えていた武士・斉藤時頼が出家した後の名前です。そして横笛は,平清盛の娘で重盛の妹の建礼門院に仕えていた雑仕女(ぞうしめ・雑役に従事した下級の女官)であったということです。

 この「滝口」というのは,宮中の警備を担当した武士を指しています。平安京では天皇の日常の居所を清涼殿と言いますが,その東北の御溝水(みかわみず・宮中の庭を流れる溝の水)が落ちるところに警備のための詰所があったことから,この武士を「滝口」と呼んでいたそうです。
 ここまでの前提知識をもとに,滝口入道と横笛の悲恋について,滝口寺のパンフレット「滝口と横笛の旧蹟・滝口寺」を読んでみます。

==以下引用==
 滝口入道と横笛の悲恋の寺,滝口寺は,もと往生院三宝寺といった。念仏房(法然の弟子)によって創建された「往生院」は,念仏の道場として栄えその境内も山上から広い地域に渡って数々の坊があったと伝えられる。その後,応仁の乱等の数々の戦乱により変遷を経て,後,祗王寺と三宝寺とが浄土宗の寺として残った。

 明治維新,廃寺となり,祗王寺の再建に続いて当寺も再建され,故佐佐木信綱博士が,小説「滝口入道」にちなんで「滝口寺」と命名された。「平家物語」維盛高野の巻で,滝口入道と横笛の悲恋物語が挿入されている。滝口入道はもと重盛の侍でその名を斉藤滝口時頼。

 清盛の西八条殿での花見の宴に於いて建礼門院つきの女官の横笛の舞姿を見て,恋しく思うようになり,恋文を送るようになった。すると,時頼の父がこの事を聞いて「おまえは名門の出にして,将来は平家一門に入る身上でありながら,なぜあんな横笛ごときを思いそめるのか」ときびしく叱ったため,時頼は,主君(小松内大臣重盛)の信頼に背いて恋に迷う己を自責したが,「これこそ仏道に入らしめる尊い手引きである」として嵯峨の往生院で出家してしまう。

 横笛は,都で滝口入道が出家したということを伝え聞いて恨めしく思い,自分の心を打ち明けたいと,都を出てあちらこちらと尋ねて嵯峨の往生院へやって来た時は,もう日も暮れた夕闇の中だった。住み荒したる僧坊に念誦の声がしたので,滝口入道の声と聞きすまして真の心をうちあけたく,女子の身でやってきたことを言った。滝口入道は,胸がどきどきして,驚き呆れたあまり,襖の隙間から覗いて横笛みると,裾は露でぬれ,袖は涙でぬれ,痩せこけた顔つきは,本当に尋ねかねた様子に如何なる大道心者も心弱うなるに違いない。ところが,滝口入道は,同宿の僧を遣わして「全くここにはそのような人は居りません。お門違いではないでしょうか」と言わせた。

 横笛泣く泣く帰るわけだが,真の心を伝えたく,近くにあった石に歌を書いて帰った。 山深み思い入りぬる柴の戸のまことの道に我を導け
 滝口入道は未練が残ったまま別れた女性に住いを見つけられたからには修行の妨げと思い高野山に移った。横笛もその後すぐ法華寺で尼になったと聞いたので滝口入道は一首の歌を横笛に送った。

 そるまでは恨みしかとも梓弓
  まことの道に入るぞ嬉しき

横笛返して

 そるとても何か恨みむ梓弓
  引きとどむべき心ならねば

 横笛はまもなく法華寺で死んだ。滝口入道はこの事を伝え聞いてますます仏道修行をして高野の聖といわれる高僧になったという。
==引用終わり==

 横笛は,出家したという話とは別に,滝口入道に会えなかったあとに桂川に身を投げたとも言われているそうです。滝口寺の境内には,平家一門の供養塔や,平重盛を祀った「小松堂」のほか,足利尊氏とともに鎌倉幕府を倒しながらも,のちに尊氏との戦いに敗れた武将・新田義貞の首塚があります。新田義貞の首は,京都の三条河原で晒されていたものを妻の勾当内侍(こうとうのないし)が盗み出して嵯峨野に埋葬したとも言われ,首塚の近くには勾当内侍の供養塔もあります。

【京都の寺社】清涼寺

 今回は浄土宗寺院である清涼寺(せいりょうじ)。嵯峨釈迦堂(さがしゃかどう)のという名でも知られているようです。渡月橋からひたすら北へ向かって歩くと,清涼寺の仁王門に突き当たることになりますが,狭い小道の先に現れるこの大きな門は,見るものを圧倒するような雰囲気があります。この仁王門の西側には,前回の宝筐院がありますね。
 清涼寺の本尊は釈迦如来で,開基(創立者)は奝然(ちょうねん)。開山(初代住職)はその弟子の盛算(じょうさん)です。

 清涼寺のある地には,元はと言えば嵯峨天皇の皇子である左大臣・源融(みなもとのとおる,822~895)の別荘・栖霞観(せいかかん)があったとのことです。源融がそこに阿弥陀三尊像を造立しようとして果たせなかったのを,源融の一周忌の寛平八年(896)に彼の息子が遺志をついで造立。その阿弥陀三尊像を安置した阿弥陀堂を棲霞寺(せいかじ)と呼びました。この源融は,あの源氏物語に登場する光源氏のモデルとも言われている人物ですね。微笑
 天慶八年(945)には,重明親王が亡き妃のために新しい御堂を建てて,そこに釈迦像を安置したということで,この釈迦像を納めた新堂が,現在の清涼寺の別名である「嵯峨釈迦堂」の名の由来ではないかという説があるようです。

 棲霞寺の創建から数十年を経て,奝然(ちょうねん,938~1016)という僧が中国大陸の宋に渡ったときに,現地の仏師に釈迦如来像を彫らせました。奝然は帰国後,その釈迦如来像を安置する寺院を建立しようとして果たせずに亡くなりましたが,弟子の盛算(じょうさん)が長和九年(1016)に,棲霞寺にあった釈迦堂を新たな寺院・五台山清凉寺として創建したのが,現在の清涼寺の始まりとされています。
 この五台山というのは,奝然が宋に渡ったときに巡礼した霊山・五台山のことです。この山は別名を清涼山と言うそうですが,奝然は京都にある愛宕山(嵯峨野の北西にあります)を宋の五台山に見立てて,この麓に釈迦如来像を安置する寺院を建立しようとしました。それが五台山を号する清凉寺の始まりとなっている訳です。

 清涼寺の南門である仁王門,清涼寺の前身で棲霞寺と呼ばれた阿弥陀堂,清涼寺の本尊である釈迦如来像を安置した本堂(釈迦堂)以外に気になるものを少し…。

 本堂(釈迦堂)の西隣には「秀頼公首塚」という首塚があります。昭和五十五年(1980)に大阪城三の丸跡の発掘時に,豊臣秀頼の首と思われる遺骨が発見され,清涼寺で葬られることになりました。これは,清涼寺の本堂が,慶長七年(1602)に豊臣秀頼によって寄進・造営されたことが縁となっています。

 清涼寺の境内の西門近くには薬師寺がありますが,この薬師寺は旧福生寺と伝えられます。小野篁(おののたかむら,802~853)が冥土と現世を往復して,閻魔大王の補佐をしていたという伝説がありますが,その冥土への入り口が六道珍皇寺の井戸で,冥土からの出口が福生寺にあったということです。現在,薬師寺の脇には,現世への出口であること示す「生の六道」と刻まれた石碑が残されています。

 このように複雑な歴史を辿っている清涼寺。伽藍についても,現在の本堂(釈迦堂)は元禄十四年(1701)に,江戸幕府五代将軍・徳川綱吉とその生母桂昌院によって再建されたもので,阿弥陀堂は文久三年(1863),仁王門は安永五年(1776)の再建だということです。
 清涼寺の境内は広いですが,訪れる人もそんなに多くはなく,今でも静寂な雰囲気を保っています。多くの人が関わってきた歴史の重みを感じさせるに充分な重厚感を漂わせていると言ってもいいでしょう。微笑

 年中行事としては,毎年3月15日には京都三大火祭りの一つとされるお松明(たいまつ)が,4月には京都の三大狂言の一つとされる嵯峨大念仏狂言が行われているそうです。こんな行事に遭遇する機会があればいいですね。笑顔
 そう言えば,昨年は仁王門に車が突っ込むという事故が報道されていましたけど,その後は大丈夫なんでしょうか…。

【京都の寺社】宝筐院

 今回は,前回の落柿舎から北東に少し歩いたところにある宝筐院(ほうきょういん)。見た目はひっそりとした雰囲気の寺院ですが,紅葉の名所として有名ということで,秋ともなると,多くの人が訪れるようです。微笑
 宝筐院は臨済宗の単立寺院で,本尊は木造十一面千手観世音菩薩立像。室町幕府の二代将軍・足利義詮(あしかが・よしあきら)と南朝の忠臣・楠木正行(くすのき・まさつら)の菩提寺として知られています。

 この楠木正行というのは,河内国の豪族として有名な楠木正成(まさしげ)の嫡男です。足利尊氏が室町幕府を開いて南北朝が対立した時代,南朝方の武将として幕府と戦って討ち死にした人物です。父親の正成が大楠公と尊称されたことに対して小楠公(しょうなんこう)とよばれました。宝筐院には,対立したはずの幕府方の足利義詮と南朝方の楠木正行が,なぜか一緒に葬られているということになります。

 そんな疑問も持ちながら,以下,パンフレットの記述です。とてもよくまとまっているので,そのまま引用したりします…。滝汗

==パンフ始まり==

宝筐院略史
 平安時代に白河天皇(1053~1129)の勅願寺(天皇の発願によって建てられた寺)として建てられ,善入寺と名づけられた。平安の末から,鎌倉時代にかけては,数代にわたり皇族が入寺して住持(寺院の住職)となった。
 南北朝時代になり貞和年間(1345~50)より夢窓国師の高弟の黙庵周禅師が入寺し,衰退していた寺を復興して中興開山となり,この善入寺にあって門弟の教化を盛んにし,これ以後は臨済宗の寺となった。

 室町幕府の二代将軍・足利義詮は,貞治四年(1365)に母の死去にあい,その法要の席において黙庵から経典の講義を聞き,更に参禅問答したことを契機に黙庵に帰依し,師のために善入寺の伽藍整備に力をいれた。
 東から西へ総門・山門・仏殿が一直線に建ち,山門・仏殿間の通路を挟んで北に庫裏,南に禅堂が建ち,仏殿の北に方丈,南に寮舎が建っていた。寺の位置は「応永均命図」(室町時代前期の嵯峨地域寺院配置図)によると現在地と変わらない。

 貞治五年に観林寺と改称されたが,まもなくもとの名にもどされ,貞治六年(1367),義詮が没する(38歳)と,善入寺はその菩提寺となり,八代将軍・義政の代になって義詮の院号の宝筐院に因み寺名は宝筐院と改められた。備中・周防などに寺領があり,足利幕府歴代の保護もあって寺も隆盛であったが,応仁の乱以後は幕府の衰えと共に寺領も横領されるなど経済的に困窮した寺は次第に衰微した。
 その後,江戸時代には天龍寺末寺の小院で,伽藍も客殿と庫裏の二棟のみとなり,幕末には廃寺となったが,五十数年をへて復興された。

小楠公首塚由来
 黙庵は河内の国の南朝の武将・楠木正行と相識り,彼に後事を託されていた。正平三年・貞和四年(1348)正月,正行は四条畷の合戦で高師直の率いる北朝の大軍と戦い討ち死し(23歳),黙庵はその首級を生前の交誼により善入寺に葬った。後にこの話を黙庵から聞いた義詮は,正行の人柄を褒めたたえ,自分もその傍らに葬るように頼んだという。
 明治二十四年(1891),京都府知事・北垣国道は小楠公(楠木正行)遺跡が人知れず埋もれているのを惜しみ,これを世に知らせるため,首塚の由来を記した石碑「欽忠碑」を建てた。

伽藍再興
 楠木正行ゆかりの遺跡を護るため,高木龍淵天龍寺管長や神戸の実業家の川崎芳太郎によって,楠木正行の菩提を弔う寺として宝筐院の再興が行われた。
 旧境内地を買い戻し新築や古建築の移築によって伽藍を整え,屋根に楠木の家紋・菊水を彫った軒瓦を用い小楠公ゆかりの寺であることを示した。
 大正六年に完工し,古仏の木造十一面千手観世音菩薩立像を本尊に迎え,主な什物類も回収され,宝筐院の復興がなった。その後更に茶室が移築され,現本堂が新築された。
 現在は臨済宗の単立寺院。

楠木正行・足利義詮墓所
 石の柵に囲まれて,二基の石塔が立つ。五輪塔(※写真右側)は楠木正行の首塚(首だけを葬ったから),三層石塔(※写真左側)は足利義詮の墓と伝える。当院再興の時に残されていた石塔はこの二基のみであり,その他の墓は不明だが時折石塔の小部分が出土することがあり,多くの石塔が立っていたことがわかる。荒廃し廃寺となっている間に,殆どのものが石材として持ち去られたのであろう。墓前の石灯籠の書は富岡鉄斎の揮毫。「精忠」は最も優れた忠。「碎徳」は一片の徳,即ち敵将を褒めたたえその傍らに自分の骨を埋めさせたのは徳のある行いだが,徳全体からみれば小片にすぎない,という意味で義詮の徳の大きさを褒めた言葉。

==パンフ終わり==

 対立したはずの幕府方の足利義詮と南朝方の楠木正行が,一緒に葬られているという疑問に答えるパンフレットでした。
 それにしても,宝筐院の紅葉はきれいですね。この庭園は回遊式の枯山水庭園ということです。普段は静かな庭園に大勢の人が訪れる理由がよく分かります。紅葉の色もさまざまで,そのコントラストが微妙な風合い醸し出していますね。笑顔

【京都の寺社】落柿舎

 さて,京都の嵯峨野と言えば,のどかな田園風景を思い浮かべる人も多いと思いますが,今回の落柿舎(らくししゃ)はその田園風景に溶け込みながら佇んでいます。う~ん,これぞ典型的な日本の原風景という感じですねぇ。しばらくボーっとひなたぼっこでもしていたいような風景です。微笑落柿舎は江戸時代の俳人・松尾芭蕉の弟子で,蕉門(しょうもん)十哲の一人とされる向井去来の草庵です。松尾芭蕉も何度か滞在し,元禄四年(1691)の滞在時には「嵯峨日記」を執筆したと言われています。

 向井去来が記した「落柿舎記」には,名前の由来についての記述があります…。落柿舎の庭に柿の木が40本あって,その柿の実を購入する約束をした商人が,代金を置いて帰ったそうです。ところが,その夜の嵐によって柿の実がほとんど落ちてしまいました。驚いて駆けつけた商人に去来が代金を返したということで,それが落柿舎の名前の由来となっているとのことです。庭には,「柿主や木ずゑは近きあらしやま」と記された去来の句碑もあります。

 しかし,現在の落柿舎には,柿の木が40本も生えるほど広い庭はありません。実は,もともと落柿舎があったのは少し違う場所で,俳人の井上重厚が明和七年(1770)に再建したときに現在の場所になったそうです。その後,明治28年(1895)にも再建されているようですね。落柿舎の北側は弘源寺の墓苑になっていて,そこに向井去来の遺髪を納めたという墓があります。しかし,去来の葬儀は哲学の道近くの真如堂で行われ,そこに墓もあるとのことですので,こちらが本来の墓でしょうか。

 落柿舎の門を入ったところには蓑と笠がかけてあります。もともと,去来が在宅ならかけておき,かかっていなければ外出中というしるしでしたが,現在は落柿舎の象徴として常にかかっています。当時の俳人たちの生活の風景が表れているような感じがしますね。
 落柿舎の庭には,この庵に関わってきた人々や功労のあった人々の句碑があちこちに建てられています。その句碑を見ながら,のどかな佇まいの中でのんびりとするのも一興でしょう。また,落柿舎にある投句箱に投句された句のうち,入選句は季刊誌「落柿舎」に掲載される上に自宅にも郵送してもらえるそうです。落柿舎を訪れた際には,旅の記念に一句ひねってみてはいかがでしょうか。笑顔

【京都の寺社】二尊院

 今回の二尊院は,嵯峨野にある天台宗の寺院。前回の常寂光寺のすぐ北側にあって,同じ小倉山の中腹にあります。二尊院の名の由来は,本尊の「発遣(ほっけん)の釈迦」と「来迎(らいごう)の阿弥陀」の二尊だそうですが,ちょっと分かりにくいですかねぇ…。困惑
 二尊院の入り口にあたる総門ですが,前回の常寂光寺の土地を提供したとされる京都の豪商・角倉了以が伏見城の薬医門を移築したものということで,境内には角倉了以の墓があります。ふ~ん,彼は色々なところに関わっているんですね。境内にはさらに,三条実美や阪東妻三郎などの墓もあるとか…。え…あの映画俳優の「阪妻」ですか。田村正和氏のお父上と言った方が通りがいいでしょうか。微笑

 ということで,二尊院のパンフレットをめくってみます。今回のパンフレットはかなり丁寧な語り口で書かれています…。
『「百人一首」で名高い小倉山の東麓にあって,本尊に釈迦如来と阿弥陀如来の二尊を祀るため,二尊院と呼びますが,正しくは「小倉山二尊教院華台寺(けだいじ)」といい,明治以降天台宗に属しております。嵯峨天皇(在位809~823)の勅願により慈覚大師(円仁)が承和年間(834~847)に開山したといわれております。

 釈迦如来は,人が誕生し人生の旅路に出発するときに送り出してくださる「発遣の釈迦」といい,阿弥陀如来は,その人が寿命をまっとうした時に極楽浄土よりお迎えくださいます。これを「来迎の阿弥陀」といいます。共に鎌倉時代の春日仏師作(重要文化財)と伝わっております。この思想は,唐の時代中国の善導大師が広め,やがて日本に伝わり法然上人に受け継がれたのです。その為に現在は法然上人二十五霊場十七番札所となっています。当時は,明治維新まで天皇の名代として勅使参詣があり,御所でのすべての仏事を司り公家方との交流も盛んでした。
 応仁の乱(1467~1477)によって諸堂が全焼しましたが,現本堂,唐門(勅使門)は約三十年後に再建されました。本堂「二尊院」の勅額(後奈良天皇),唐門「小倉山」の勅額(後柏原天皇)は,このとき下賜されたものです。』

 二尊院を開いた慈覚大師(円仁)は天台宗の開祖である最澄の弟子で,天台宗のトップである天台座主となった人物です。また,二尊院は,藤原定家の山荘・時雨亭があったところと伝えられているそうなんですが,前回の常寂光寺も同じように伝えられていたような…。はたしてどちらが正しいでしょうか。ひょっとしてどちらにもあったのか,はたまた同じ場所のことを言っているのか…。にやり

 まぁそんな歴史もありますけど,参拝するものとすれば,とりあえず総門から続く「紅葉の馬場」とよばれる参道の紅葉を楽しむのがいいですね。この参道は結構広くて長いので,なかなか見ごたえがありますよ。笑顔

【京都の寺社】常寂光寺

 今回は,天龍寺から北へ少しばかり歩いたところにある日蓮宗の寺院・常寂光寺(じょうじゃっこうじ)です。この寺院は小倉山の中腹にあって,傾斜のきつい石段を登りきれば境内から嵯峨野を一望することができます。この小倉というのは,あの「小倉百人一首」の小倉ですね。この常寂光寺のある場所は,もともと小倉百人一首の撰者である鎌倉時代初期の歌人・藤原定家の山荘・時雨亭があったところと伝えられているそうで,「時雨亭址」というのもあります。

 で,常寂光寺の由来を…と思ってパンフレットをめくってみたんですが,これが文語体で非常に読みにくいですなぁ…。滝汗という訳で,口語体に直した上に括弧書きの説明も少し追加しました。
 『常寂光寺を開いたのは究竟院(くきょういん)日禎上人(にっしんしょうにん)。日禎上人は,権大納言・広橋国光の子として,永禄四年(1561)に出生し,幼い頃,日蓮宗の大本山・本圀寺(ほんこくじ)十五世日栖(にっせい)の門に入り,わずか18歳で同寺十六世となる。日禎上人は,宗学(各宗派の自宗の教義に関する研究・学問)と歌道(和歌の道)への造詣が深く,三好吉房(豊臣家の家臣で秀吉の姉婿),瑞龍院日秀(秀吉の実姉),小早川秀秋,加藤清正,小出秀政(秀吉の叔父),その他京都町衆(京都の裕福な商工業者)の帰依者が多かった。
 日禎上人は,文禄四年(1595),豊臣秀吉が建立した東山の方広寺大仏殿の千僧供養(千人の僧を招いて食事を供し法要を行うこと)の際,不受布施(日蓮宗以外の者から施しを受けず日蓮宗以外の僧侶に施しをしないこと)の宗制を守って千僧供養には欠席し,やがて本圀寺を出て,慶長元年(1596)に隠棲(世間から離れてひっそりと暮らすこと)の地として常寂光寺を開いた。』

 本圀寺というのは,京都・山科の天智天皇陵の近く,琵琶湖疏水の北側にある寺院ですね。そう言えば,以前はその周辺で何度か花見をやっていたことを思い出しました。歴史というのは割と身近にあるもので…。微笑
 あと,日禎上人が方広寺大仏殿の千僧供養に出席しなかったときの理由となった「不受布施(日蓮宗以外の者から施しを受けず日蓮宗以外の僧侶に施しをしないこと)」という教義が少し分かりにくいですね。方広寺は日蓮宗ではなくて天台宗の寺院だからダメだよぉ~ということなんでしょうが…。日蓮宗には,この教義を主張する「不受布施派」という一派が,現在でも存在するそうです。

 歌人としても有名であった日禎上人に小倉山麓の土地を提供したのは,角倉了以と角倉栄可です。また,堂塔伽藍(寺院の中の建物の総称)の整備には小早川秀秋などの助力を得たそうで。角倉了以は,高瀬川を開削した京都の豪商として有名で,京都の木屋町二条あたりにそんな記念碑がありました。その碑の前にある料理屋には何度か足を運びましたが,そこが角倉了以の屋敷跡なんだそうですね。土地の寄進に対して日禎上人は,角倉了以の大堰川開削事業へ人的な支援を行うことで応えているようです。

 代表的な堂塔伽藍について少しだけ…。
 仁王門…もともとは本圀寺客殿の藁葺きの南門で,貞和年間(南北朝時代)の建立。元和二年(1616)に現在地に移築。門の中の仁王像は福井県小浜の日蓮宗寺院・長源寺から移されたもので,運慶作と伝えられている(実際は不明)。
 本堂…二世・通明院(つうみょういん)日韶(にっしょう)上人が,慶長年間(1596~1615)に小早川秀秋の助力を得て,桃山城の客殿を移築し造営した。
 多宝塔…通明院日韶上人が元和六年(1620)に建立。辻堂兵衛尉直信という京都町衆が大檀那(多くの布施を寺に出す檀家,有力な檀家)として献上した。

 まぁ,なんやかんや言っても,結局は境内から見た嵯峨野の景色が一番印象に残っているんですけどね…。参拝したときに,この景色を眺めながら,長いことボーっとしていたことは確かです。笑顔

【京都の寺社】野宮神社

 前回は嵐山から東へたどった車折神社でした。今回の野宮(ののみや)神社は,嵐山の天龍寺から北へ向かい,あの有名な嵯峨野の竹林の小道に行こうとすると,ふと脇に見つけることのできる小さな神社です。
 小さな神社ですけど,結構参拝客が多いですねぇ…。効能…じゃなくて,ご利益はと言えば,鎮火勝運,芸能上達,子宝安産,商売繁盛,交通安全,財運向上,良縁結婚…。この中でも,縁結びと子宝安産がこの神社のポイントのようです。さらにこの神社は源氏物語にも登場し,能の題材にもなっているとか。こういう訳で多くの参拝客を呼んでいるんでしょうね。
 私が参拝したときには全然気に留めなかったんですが,野宮神社の入り口にある黒木鳥居は,クヌギの木を樹皮がついたまま使用している日本最古の様式ということです。古い歴史を持つ神社の顔ですか。微笑

 さっそく,野宮神社のサイトから由来を紐解いてみますと…。
 『野宮はその昔、天皇の代理で伊勢神宮にお仕えする斎王(皇女、女王の中から選ばれます)が伊勢へ行かれる前に身を清められたところです。
 嵯峨野の清らかな場所を選んで建てられた野宮は、黒木鳥居と小柴垣に囲まれた聖地でした。その様子は源氏物語「賢木の巻」に美しく描写されています。
 野宮の場所は天皇の御即位毎に定められ、当社の場所が使用されたのは平安時代のはじめ嵯峨天皇皇女仁子内親王が最初とされています。斎王制度は後醍醐天皇の時に南北朝の戦乱で廃絶しました。その後は神社として存続し、勅祭が執行されていましたが、時代の混乱の中で衰退していきました。
 そのため後奈良天皇、中御門天皇などから大覚寺宮に綸旨が下され当社の保護に努められ、皇室からの御崇敬はまことに篤いものがありました。』

 なるほど,伊勢神宮に派遣されることになった天皇の名代である斎王(斎宮)が身を清めたところを,もともと「野宮」とよんでいたようですね。これが野宮神社の名前の由来ですか…。それで,天皇が代わるたびに場所が変わっていた「野宮」が,平安時代のはじめに現在の場所に定着して「野宮神社」となったと…。野宮神社は伊勢神宮と皇室にとても深いゆかりのある神社ということなんですね。
 で,現在の野宮神社の御祭神は野宮大神(天照皇大神)だそうです。他にも愛宕大神,白峰弁財天,白福稲荷大明神,大山弁財天,野宮大黒天がまつられていて,多くのご利益をもたらしているそうで…。笑顔

 観光ガイドなんかを読むと,野宮神社の境内にある苔むした庭園が必ず登場するようです。「野宮じゅうたん苔」というそうで,境内にも案内板がありました。一般的には,ご利益どうのこうのというよりは,こちらの方が有名なんでしょうか…。確かに寺院では苔の庭園をよく見かけますけど,神社で苔の庭園というのはあまり聞いたことがないような気がします。名前の通りふかふかしたような苔ですね。微笑

【京都の寺社】車折神社

 京都の寺社シリーズの5回目です。前回の鹿王院から京福電鉄でもう一駅東へ行くと,「車折神社駅」に到着します。その駅前にあるのが車折(くるまざき)神社。もう20年近く前の話なんですが,私が京都に引っ越してきたばかりのころ,この車折神社前駅のホームに隣接した賃貸マンションに友人が住んでいまして,そこに遊びに行ったときに初めてこの神社の存在を知りました。
 芸能人の名前が書いてある札がびっしりと並んでて珍しいからということで,友人に案内されて神社に入ったんですが,確かに壮観でしたね。当時の私としては,どこにでもあるような小さな神社に有名な人たちの名前がこれだけたくさんあるのが不思議でならなかったんですが,そこはやっぱり京都。とても有名な神社だと後から知りました…。滝汗

 と言っても,芸能関係だけの神社というわけではないようです。とりあえず,車折神社のサイトから由緒を引用しますと…。
 『ご祭神・清原頼業(よりなり)公は平安時代後期の儒学者で、天武天皇の皇子である舎人親王の御子孫にあたり、一族の中には三十六歌仙の一人である清原元輔、その娘、清少納言らの名も見られる。
 頼業公は大外記の職を24年間も任め、和漢の学識と実務の手腕は当代無比といわれ、晩年には九条兼実から政治の諮問にあずかり、兼実から「その才、神というべく尊ぶべし」と称えられた。
 頼業公は平安時代末期の1189年(文治5年)に逝去され、清原家の領地であった現在の社地に葬られ、廟が設けられた。やがて頼業公の法名「宝寿院殿」に因み、「宝寿院」という寺が営まれた。この寺は室町時代に至り、足利尊氏により嵐山に天龍寺が創建されると、その末寺となった。また、頼業公は生前、殊に桜を愛でられたのでその廟には多くの桜が植えられ、建立当初より「桜の宮」と呼ばれていたが、後嵯峨天皇が嵐山の大堰川に御遊幸の砌、この社前において牛車の轅(ながえ)が折れたので、「車折大明神」の御神号を賜り、「正一位」を贈られた。これ以後、当社を「車折神社」と称することになった。』
 う~ん,それにしても,京都の地名は読みにくいものが多いですね。「帷子(かたびら)ノ辻」とか「太秦(うずまさ)」とか…。「車折」も変わった名称ですが,やはりそれなりの由来があったわけですね。微笑

 さて,どんなご利益があるのかということが気になりますが…。車折神社によると『頼業公のご学徳により学業成就・試験合格はもとより、特に、「約束を違えないこと」をお守り下さる霊験あらたかな神様として全国的に強い信仰があります。』とのことです。
 例えば,商売については『様々な約束事や契約が守られることにより、集金が滞りなく進み、経営が都合よく運ぶ御加護(商売繁盛・会社隆昌)がいただけます。』 うん,すばらしいですね…。
 一般家庭でも『お金のやり繰りが都合よく運び、生活が豊かになり、お金に不自由しない御加護(金運・財運向上)がいただけます。』 これもいいですね。
 まだまだありますよ。『更に恋愛・結婚においても、様々な約束事や誓いが守られ、順調に成就・進行する御加護(良縁成就・恋愛成就)がいただけ、ご社頭には遠近からお参りする人々が絶えません。その他にも、厄除け・交通安全など、どのようなお願い事に対しても車折大神様は皆様とのご利益をお授け下さいます。』
 ようするに,何でもありということですね。滝汗これはまぁ,全国の神社で言えることなんでしょうけども…。それでも各社それぞれの得意分野(?)があると思いますが,車折神社の特色としては「学業成就」であり,「約束を違えないこと」がご利益のキーワードとなっているということですね。

 芸能に関するご利益は,車折神社の中にある芸能神社で受けられるそうです。芸能神社の由緒を読むと…。
 『芸能神社は車折神社の境内社の一社で、昭和32年に他の末社より御祭神・天宇受売命(あめのうずめのみこと)を分祀申し上げ創健した神社である。
 天宇受売命が芸能・芸術の祖神として古来より崇敬される所以は、<神代の昔、天照大御神が弟である素戔鳴尊の行いを逃れ、天の岩戸にお入りになり固く扉を閉ざされたためにこの世が暗闇になった。 
 その時、天宇受売命が岩戸の前で大いに演舞され、天照大御神の御神慮をひたすらにお慰め申されたところ、大御神は再び御出現になり、この世は再び光を取り戻した。>という故実にもとづく。』
 なるほどですねぇ…。天の岩戸の話には,こういう展開があるのかぁ…。神話というのは本当に奥が深いですね。この芸能神社には,芸能人や芸能団体の名前が記された朱塗りの玉垣(神社の周囲にめぐらされる垣)が2000枚以上奉納されているそうです。そりゃぁもう圧巻です。笑顔

【京都の寺社】鹿王院

 京都の寺社シリーズの4回目なんですが,だんだんと個人的な備忘録といった様相を呈してきました。まぁ,それでいいんですけど。写真を眺めていると数年前にあちこちまわったときのことを思い出して,その情景に浸っております。ほげーっと…。微笑
 今回は鹿王院(ろくおういん)ですが,嵐山から京福電鉄に乗車して二つ目の駅「鹿王院駅」で下車してすぐのところにあります。まわりは閑静な住宅街で,その中にひっそりとたたずんでいるという感じですね…。観光客もまばらで,とても落ち着いた雰囲気があります。室町幕府の三代将軍であった足利義満による建立とのことです。

 パンフレットをめくります…。
 『覚雄山大福田宝幢禅寺鹿王院の沿革 康暦元年(1379),廿二歳の足利義満(1358~1408)は,一夜夢の中で毘沙門天と地蔵菩薩が「今の将軍は福も官位も意のままに十分満ち足りている。ここで一カ所寺を建立すれば寿命を延ばすこと間違いない」と語り合うのを聞いて,最も帰依していた五山派の禅僧で春屋妙葩(しゅんおくみょうは)=普明国師(ふみょうこくし)(1311~1388)を開山として,自らの延命を祈願して禅刹を建立し,覚雄山大福田宝幢寺と名づけた。至徳三年(1386)には,南禅寺・天龍寺・相国寺などの五山に次ぐ京都十刹の第五位に列せられて室町幕府の官寺となった。この宝幢寺の開山となった春屋の塔所として同時に宝幢寺内に建立されたのが鹿王院である。鹿王の由来は造作の折に野鹿の群れが現われたことによる。宝幢寺・鹿王院が最も栄えたのは室町時代前期で義満を初めとして義持・義教・義政ら歴代将軍の御成りがあり,応永廿年(1427)には義満十三回忌が天皇の行う法事(済会)にならって宝幢寺で行われ,義持と扈従の公卿らは二十数台の牛車を連ね訪れている。
 しかし,応仁二年(1468)九月七日に応仁・文明の乱の戦火はこの嵯峨一帯に及び天龍寺を始めとして宝幢寺も含め大寺は全て焼失した。同時に全国30カ所に及んだ荘園も守護・地頭の押領にあって次第に失われて,以後宝幢寺の再建は実現せず,開山塔である鹿王院だけが開山春屋の一門の努力で再建され十刹としての宝幢寺の格式を継承していった。この後鹿王院は天正年間には天龍寺の塔頭になっている。
 文禄五年(1596)伏見大地震で鹿王院の伽藍は倒壊した。鹿王院の再興が本格化したのは,江戸寛文年間(1660年代)の住持虎岑玄竹(こしんげんちく)の時である。虎岑は徳川家康最古参の譜代酒井忠次の五男忠知(直参旗本千五百石)の五男で,酒井本家は出羽鶴岡藩十四万石で,虎岑は本家鶴岡藩の外護・支援を受けて鹿王院を再興した。延宝四年(1676)には,昭堂の再建が実現し,再興後の鹿王院は天龍寺の塔頭としてだけではなく創建以来の春屋門派の末寺も含めて六三カ寺で宝幢派を形成してその中心寺院となって明治期の改制まで勢力を維持した。』

 ちょっと長かったですが,明治期までの鹿王院の歴史が端的にまとめられていますね。山門の「覚雄山」の扁額と,客殿の「鹿王院」の扁額は,ともに足利義満の自筆であるとされています。鹿王院自体は焼失の危機や地震による伽藍の倒壊という事態に見舞われてきていますが,創建当時の足利義満自筆の扁額が残っていて,現在も掲げられているということに純粋な驚きを覚えますねぇ…。!
 本堂や舎利殿の前の庭園は,嵐山を借景とする平庭式枯山水庭園とのことです。確かに舎利殿の脇に嵐山が霞んで見えますね。平庭式というのは庭全体に起伏がほとんどないという状態を表し,盛り土をつくった築山式と相対する言葉のようです。庭園の形式的な違いによる分類には,他にも池泉式庭園というものもあるそうで,一番最初に紹介した天龍寺の庭園はこれに当たるのでしょうね。

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