沖縄県勢が快進撃しているようですね。
デイリースポーツ(2008年3月31日)
沖縄尚学勝ち、8強そろう
沖縄尚学3-1明徳義塾
第80回選抜高校野球大会第10日は31日、甲子園球場で3回戦の残り1試合を行い、沖縄尚学(沖縄)が昨秋の四国大会を制した明徳義塾(高知)を3-1で下し、ベスト8が出そろった。
OBで第71回大会優勝時のエースだった比嘉監督が率いる沖縄尚学は一回に西銘が先制の2点本塁打を放ち、四回にも東浜の適時打で1点を追加。東浜が明徳義塾の反撃を八回の1点に抑え7安打完投し、3年ぶりの準々決勝進出を果たした。
沖縄尚学の東浜は低めへの制球が抜群だった。140キロ台の直球と変化球の緩急も使い、1失点完投。打線は一回に西銘の左越え2ランで先制し、四回に東浜の適時打で加点した。
明徳義塾は南野が粘り強く投げていたが、打線が東浜にうまく打たされて、好機でも凡退を繰り返した。八回に1点を返したが、反撃が遅すぎた。
今回の選抜高校野球で,沖縄尚学が出場していたことは何となく認識していましたが,ほとんど注目して見ていませんでした。いつの間にかベスト8になっていましたか~。
それにしても,沖縄尚学のピッチャーはとてもきれいな投球フォームで,球筋が安定していますね。今回,初めて沖縄尚学の映像を見て,守備力と打撃力が整ったバランスのいいチームという印象を持ちました。
そう言えば,今回のチームの監督は,1999年の選抜大会で初優勝したときのエースピッチャーだったんですね。監督になって母校に戻ってきましたか…。そうそう,当時の優勝はテレビで見届けましたね。翌月曜日にスポーツ新聞をたくさん購入しようと思っていたんですが,その日から東京出張だったこともあって,そのまま買えずに取引先へ…。で,その取引先のテーブルの上にスポーツ新聞があるのを見つけて,お願いして持って帰りました。
そのスポーツ新聞をどこかにしまってあったよなぁと思って,先ほど部屋をがさごそ探したら…。ありましたよ。茶色に変色していましたけど,紙面にはバーンと優勝の瞬間の写真が載っています。という訳で,当時のその新聞記事を取り上げてみましょう。
スポーツニッポン(1999年4月5日)
沖縄に初大旗!
悲願の大旗がついに海を越えた。ともに初優勝を懸けて挑んだ翌日から沖縄尚学と水戸商(茨城)の決勝戦は4日、甲子園球場で行われ、沖縄尚学はエース比嘉公也(3年)を左ひじ痛で欠きながら右腕・照屋正悟(3年)が好投。打線も10安打と援護して7-2で水戸商を逆転で破り、初優勝を飾った。沖縄県勢は春夏通じて3度目の決勝進出で初の全国制覇を達成。紫紺の大旗は初めて海を渡り、きょう5日、最南の地に届く。第71回選抜高校野球大会 決勝戦
水戸商業 020 000 000 2
沖縄尚学 020 021 20× 7浜田22年ぶり本塁打
長い時を埋めるサイレンが甲子園に響きわたる。鳴りやまない指笛、銀傘にこだまする大歓声…。総立ちで万歳三唱する一塁側アルプス席に沖縄尚学ナインは全速力で駆け寄った。
沖縄県代表として首里高が初めて甲子園の土を踏んだのが1958年夏。1万4848日の時を経て、初めて大旗が東シナ海を渡るときがやってきた。「沖縄で初めて勝てたことに意味がある」金城監督の言葉は沸き起こる大きな拍手にかき消されていく。エース不在で臨んだ大一番だった。今大会4試合で504球を投げた比嘉公の左ひじ痛は限界。前夜のことだ。金城監督から「大学でも野球を続けたいか」と聞かれた比嘉公が「はい」と答え、決勝戦の先発は控えの照屋に決まった。それでも夢へ向かうナインは逆に燃え上がる。「ここまでこられたのはお前のおかげ。ゆっくり見ていてくれ」と比嘉寿主将。そして昨年秋の県大会まで背番号1をつけていた照屋はひたむきに魂の投球を続けた。
〝代役〟照屋好投
「比嘉のためにも思い切り投げた」と水戸商を7安打2失点に抑えれば、打線も執念を見せる。二回に2点差を追いつき、五回無死一塁から途中出場の新垣雄が右中間へ会心の逆転三塁打。七回には浜田が県勢22年ぶりになるセンバツ本塁打を左翼席へ打ち込んだ。
思えば沖縄県勢が初めて甲子園にやってきた58年はまだ米国統治下だった。用具は不足し、ホームベースは米袋に土を詰めたものを代用、ユニホームは米兵の迷彩服の布を再利用したものだった。パスポートを持って船と汽車で48時間かけて甲子園入りした本土復帰は72年のこと。かつて「野球で甲子園に行くのが早いか、沖縄から大臣が出るのが早いか」と本土勢からやゆされたが、沖縄の野球は力を着実に伸ばしてきた。「大旗が海を渡った時に沖縄の戦後が終わる」と語ったのは沖縄の名将、沖縄水産・栽監督。その師の豊見城時代の教え子、金城監督によって今、長い歴史にピリオドが打たれた。沖縄出身のKiroroが歌う「長い間」の行進曲で始まった今大会。最後は4万8000人の大観衆が見せたウエーブで幕を閉じた。何度も何度も繰り返す人の波。1999年4月4日。空白を埋めた沖縄に新しい波が訪れた。
1999年優勝当時の沖縄尚学の現監督は,切れのいい球を投げる左腕の投手だったなぁという記憶ぐらいしかありませんけど,決勝戦では投げていなかったんですね。何となく思い出してきました。それまでの沖縄県勢は,選抜大会にはほとんんど出場できなかったですね。それでも夏の大会は度々強さを発揮して,沖縄水産は1990年と1991年の2年連続で,夏の甲子園準優勝でした…。そして1999年になって,ついに沖縄尚学が選抜大会で優勝。
もう今は「優勝旗が○○を越える」という表現は古くなりましたね。かつて東北勢が優勝して「優勝旗が白河の関を越えるのはいつか…」なんて言っていましたが,いきなり津軽海峡を越えて駒大苫小牧が優勝してしまったので,全く使えないフレーズとなりました。選手の移動が盛んなことも原因なんですけど,今は日本全国どこのチームが優勝してもおかしくない状況にあります。
私としては,スポーツニッポンの記事の中で,昨年亡くなった沖縄水産の元監督・栽さんがおっしゃった「大旗が海を渡った時に沖縄の戦後が終わる」。このことが,野球だけではなく名実ともに沖縄全体に浸透することを願っています。