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【京都の寺社】弘源寺

 京都の寺社シリーズの3回目です。前回の天龍寺の塔頭(付属の寺)・宝厳院の拝観は終了ということで次へ移動となったのですが,天龍寺の塔頭はまだありましたね…。という訳で今回は弘源寺です。門前に掲げられた看板の「長州藩兵の刀傷」という文言にひかれたということもありますけど,とりあえず行けるところへは行っておこうと…。微笑

 で,パンフレットをめくると…。『弘源寺は臨済宗天龍寺派大本山天龍寺の塔頭寺院。永享元年(1429)室町幕府の管領であった細川右京太夫持之公が天龍寺の開山である夢窓国師の法孫にあたる玉岫(ぎょくしゅう)禅師を開山に迎え創建した。持之公の院号をとって弘源寺の寺号とした。細川家は清和源寺の流れをくみ,足利家より分かれた細川家九代が当寺の開基持之公である。創建時は小倉山の麓に位置し北は二尊院,南は亀山にいたる広大な寺領を有していたが,幾度かの火災に遭遇し変遷を重ね,明治十五年に末庵である維北軒と合寺した。本堂からの眺望は雄大で,嵐山を借景にした枯山水庭園が春の桜,秋の紅葉と調和する景色は嵐山屈指である。』
 細かい謂れはありますが,宝厳院と同じく室町幕府の管領・細川氏が創建に関わった臨済宗の禅寺ということのようですね。

 そして庭園は,宝厳院にも登場した,嵐山を借景にした枯山水庭園です。これは写真がありますね~。やっぱり京都の寺院は庭に特徴がありますからね。ちゃんと写真を撮っておかないと…。で,これは「虎嘯(こしょう)の庭」とよばれているそうです。なんかよく分からない言葉ですなぁ…。
 弘源寺のサイトから引用すると,『虎嘯(こしょう)とは、「龍吟雲起、虎嘯風生」(龍吟じて雲起こり、虎嘯きて風生ず)と言う語句から名付けられております。この出典は『碧巌録九十九則』によるもので,「龍吟」は枯れ枝の間を抜ける風の音を表し、「虎嘯」は大地より涌出る朗々たる響きを表す,すなわち禅の悟りの境涯を表しています。』とのことです。ちなみに「嘯く」は「うそぶく」と読み,動物がほえることを意味します。…う~ん,ますます難解ですか…。とりあえず,禅の悟りを開いた状態を表す庭ということですね。分かったような分からないような…。滝汗

 もう一つ気になっていたのが門前にあった「長州藩兵の刀傷」の看板です。これは本堂の柱に残っている傷のことなんですが,パンフレットによると,『柱に残る刀傷は,幕末の「禁門の変(蛤御門の変)」(1864)に際し天龍寺に陣を構えた長州藩の軍勢が,試し切りをしたものである。』ということです。
 「禁門の変(蛤御門の変)」とは,幕末の長州藩の藩士が,孝明天皇をとりこんで尊王攘夷をはたそうとしておこした,京都御所の蛤御門付近の発砲事件で,後の幕府による第一次長州征伐につながるものです。蛤御門は京都御所の西側にある門で,今の近畿放送(KBS京都)の近くですかな。
 ついでに言うと,蛤御門の名称について面白い話がありますね。天明8年1月30日(1788年3月7日)に発生した天明の京都大火で京都御所が炎上したときに,めったに開かなかったこの門がこの時だけは開いたということで蛤(はまぐり)のような門,転じて蛤御門という俗称がついて,これが現在の正式名称となっています。う~ん,うまいことを言いますね…。にやり
 それで実際に本堂の柱を見ると,確かに刀で切り取ったかのような痕跡があります。う~ん,これは本当に当時の傷なんでしょうか…なんてことは怖くて聞けませんが,私は信じますよ。微笑

 その他にも,毘沙門堂の正面に掲げられている扁額が弘法大師の直筆とか,毘沙門堂の天井には日本画家藤原孚石が描いた四季草花48面の絵画があるとかの情報がありますが,あぁ私のメモリが足りなくなってきました…。滝汗

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