京都の寺社シリーズの5回目です。前回の鹿王院から京福電鉄でもう一駅東へ行くと,「車折神社駅」に到着します。その駅前にあるのが車折(くるまざき)神社。もう20年近く前の話なんですが,私が京都に引っ越してきたばかりのころ,この車折神社前駅のホームに隣接した賃貸マンションに友人が住んでいまして,そこに遊びに行ったときに初めてこの神社の存在を知りました。
芸能人の名前が書いてある札がびっしりと並んでて珍しいからということで,友人に案内されて神社に入ったんですが,確かに壮観でしたね。当時の私としては,どこにでもあるような小さな神社に有名な人たちの名前がこれだけたくさんあるのが不思議でならなかったんですが,そこはやっぱり京都。とても有名な神社だと後から知りました…。
と言っても,芸能関係だけの神社というわけではないようです。とりあえず,車折神社のサイトから由緒を引用しますと…。
『ご祭神・清原頼業(よりなり)公は平安時代後期の儒学者で、天武天皇の皇子である舎人親王の御子孫にあたり、一族の中には三十六歌仙の一人である清原元輔、その娘、清少納言らの名も見られる。
頼業公は大外記の職を24年間も任め、和漢の学識と実務の手腕は当代無比といわれ、晩年には九条兼実から政治の諮問にあずかり、兼実から「その才、神というべく尊ぶべし」と称えられた。 頼業公は平安時代末期の1189年(文治5年)に逝去され、清原家の領地であった現在の社地に葬られ、廟が設けられた。やがて頼業公の法名「宝寿院殿」に因み、「宝寿院」という寺が営まれた。この寺は室町時代に至り、足利尊氏により嵐山に天龍寺が創建されると、その末寺となった。また、頼業公は生前、殊に桜を愛でられたのでその廟には多くの桜が植えられ、建立当初より「桜の宮」と呼ばれていたが、後嵯峨天皇が嵐山の大堰川に御遊幸の砌、この社前において牛車の轅(ながえ)が折れたので、「車折大明神」の御神号を賜り、「正一位」を贈られた。これ以後、当社を「車折神社」と称することになった。』
う~ん,それにしても,京都の地名は読みにくいものが多いですね。「帷子(かたびら)ノ辻」とか「太秦(うずまさ)」とか…。「車折」も変わった名称ですが,やはりそれなりの由来があったわけですね。
さて,どんなご利益があるのかということが気になりますが…。車折神社によると『頼業公のご学徳により学業成就・試験合格はもとより、特に、「約束を違えないこと」をお守り下さる霊験あらたかな神様として全国的に強い信仰があります。』とのことです。
例えば,商売については『様々な約束事や契約が守られることにより、集金が滞りなく進み、経営が都合よく運ぶ御加護(商売繁盛・会社隆昌)がいただけます。』 うん,すばらしいですね…。
一般家庭でも『お金のやり繰りが都合よく運び、生活が豊かになり、お金に不自由しない御加護(金運・財運向上)がいただけます。』 これもいいですね。
まだまだありますよ。『更に恋愛・結婚においても、様々な約束事や誓いが守られ、順調に成就・進行する御加護(良縁成就・恋愛成就)がいただけ、ご社頭には遠近からお参りする人々が絶えません。その他にも、厄除け・交通安全など、どのようなお願い事に対しても車折大神様は皆様とのご利益をお授け下さいます。』
ようするに,何でもありということですね。これはまぁ,全国の神社で言えることなんでしょうけども…。それでも各社それぞれの得意分野(?)があると思いますが,車折神社の特色としては「学業成就」であり,「約束を違えないこと」がご利益のキーワードとなっているということですね。
芸能に関するご利益は,車折神社の中にある芸能神社で受けられるそうです。芸能神社の由緒を読むと…。
『芸能神社は車折神社の境内社の一社で、昭和32年に他の末社より御祭神・天宇受売命(あめのうずめのみこと)を分祀申し上げ創健した神社である。
天宇受売命が芸能・芸術の祖神として古来より崇敬される所以は、<神代の昔、天照大御神が弟である素戔鳴尊の行いを逃れ、天の岩戸にお入りになり固く扉を閉ざされたためにこの世が暗闇になった。
その時、天宇受売命が岩戸の前で大いに演舞され、天照大御神の御神慮をひたすらにお慰め申されたところ、大御神は再び御出現になり、この世は再び光を取り戻した。>という故実にもとづく。』
なるほどですねぇ…。天の岩戸の話には,こういう展開があるのかぁ…。神話というのは本当に奥が深いですね。この芸能神社には,芸能人や芸能団体の名前が記された朱塗りの玉垣(神社の周囲にめぐらされる垣)が2000枚以上奉納されているそうです。そりゃぁもう圧巻です。