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【京都の寺社】鹿王院

 京都の寺社シリーズの4回目なんですが,だんだんと個人的な備忘録といった様相を呈してきました。まぁ,それでいいんですけど。写真を眺めていると数年前にあちこちまわったときのことを思い出して,その情景に浸っております。ほげーっと…。微笑
 今回は鹿王院(ろくおういん)ですが,嵐山から京福電鉄に乗車して二つ目の駅「鹿王院駅」で下車してすぐのところにあります。まわりは閑静な住宅街で,その中にひっそりとたたずんでいるという感じですね…。観光客もまばらで,とても落ち着いた雰囲気があります。室町幕府の三代将軍であった足利義満による建立とのことです。

 パンフレットをめくります…。
 『覚雄山大福田宝幢禅寺鹿王院の沿革 康暦元年(1379),廿二歳の足利義満(1358~1408)は,一夜夢の中で毘沙門天と地蔵菩薩が「今の将軍は福も官位も意のままに十分満ち足りている。ここで一カ所寺を建立すれば寿命を延ばすこと間違いない」と語り合うのを聞いて,最も帰依していた五山派の禅僧で春屋妙葩(しゅんおくみょうは)=普明国師(ふみょうこくし)(1311~1388)を開山として,自らの延命を祈願して禅刹を建立し,覚雄山大福田宝幢寺と名づけた。至徳三年(1386)には,南禅寺・天龍寺・相国寺などの五山に次ぐ京都十刹の第五位に列せられて室町幕府の官寺となった。この宝幢寺の開山となった春屋の塔所として同時に宝幢寺内に建立されたのが鹿王院である。鹿王の由来は造作の折に野鹿の群れが現われたことによる。宝幢寺・鹿王院が最も栄えたのは室町時代前期で義満を初めとして義持・義教・義政ら歴代将軍の御成りがあり,応永廿年(1427)には義満十三回忌が天皇の行う法事(済会)にならって宝幢寺で行われ,義持と扈従の公卿らは二十数台の牛車を連ね訪れている。
 しかし,応仁二年(1468)九月七日に応仁・文明の乱の戦火はこの嵯峨一帯に及び天龍寺を始めとして宝幢寺も含め大寺は全て焼失した。同時に全国30カ所に及んだ荘園も守護・地頭の押領にあって次第に失われて,以後宝幢寺の再建は実現せず,開山塔である鹿王院だけが開山春屋の一門の努力で再建され十刹としての宝幢寺の格式を継承していった。この後鹿王院は天正年間には天龍寺の塔頭になっている。
 文禄五年(1596)伏見大地震で鹿王院の伽藍は倒壊した。鹿王院の再興が本格化したのは,江戸寛文年間(1660年代)の住持虎岑玄竹(こしんげんちく)の時である。虎岑は徳川家康最古参の譜代酒井忠次の五男忠知(直参旗本千五百石)の五男で,酒井本家は出羽鶴岡藩十四万石で,虎岑は本家鶴岡藩の外護・支援を受けて鹿王院を再興した。延宝四年(1676)には,昭堂の再建が実現し,再興後の鹿王院は天龍寺の塔頭としてだけではなく創建以来の春屋門派の末寺も含めて六三カ寺で宝幢派を形成してその中心寺院となって明治期の改制まで勢力を維持した。』

 ちょっと長かったですが,明治期までの鹿王院の歴史が端的にまとめられていますね。山門の「覚雄山」の扁額と,客殿の「鹿王院」の扁額は,ともに足利義満の自筆であるとされています。鹿王院自体は焼失の危機や地震による伽藍の倒壊という事態に見舞われてきていますが,創建当時の足利義満自筆の扁額が残っていて,現在も掲げられているということに純粋な驚きを覚えますねぇ…。!
 本堂や舎利殿の前の庭園は,嵐山を借景とする平庭式枯山水庭園とのことです。確かに舎利殿の脇に嵐山が霞んで見えますね。平庭式というのは庭全体に起伏がほとんどないという状態を表し,盛り土をつくった築山式と相対する言葉のようです。庭園の形式的な違いによる分類には,他にも池泉式庭園というものもあるそうで,一番最初に紹介した天龍寺の庭園はこれに当たるのでしょうね。

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